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メディア関連
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200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階
200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
祭りの色彩に思いをはせて  タビノイロドリ
カメラ館 フクチアンの日記
ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記

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2月28日(金)

 新宿の待ち合わせスポットの一つであり、2014年まで「笑っていいとも!」の撮影スタジオがあった新宿アルタが今日で45年の歴史に幕をおろした
 アルタの中は一度だけ入ったことがある。1980年代の後半、お笑いタレントの名義でHOW TO本のゴーストライターをやったことがあり、そのタレントさんが「笑っていいとも!」にレギュラーで出演していたので、完成した本を出版社の女性編集者と一緒に届けに行った。スタジオの横の方で公開収録を見ていたのだが、確か番組の終わりの方で本の紹介をしてもらったと思う。その本を出版した大陸書房は、それから何年かして倒産した。負債額は97億円で出版界としては当時最大級の経営破綻だったそうだ。

 岩手県大船渡市の大規模山林火災は発生から3日となるが、延焼が続いており、これまでに少なくとも1200ヘクタールが焼失し住宅も84棟が燃えたとみられるそうだ。山林火災は山梨県大月市でも発生しており、こちらも2日経った現在も延焼が続いているという。

 この他の気になった記事を備忘録として。
高額療養費の負担増、一部凍結を首相表明 今夏は実施して「再検討」
「もうええでしょう」 “怪優”ピエール瀧さん 魅力は「顔が…」
「この映画は日本へのラブレター」──伊藤詩織がアカデミー賞ノミネート作品『Black Box Diaries』を語る

ルー大柴

◯ルー大柴

 「トゥギャザーしようぜ!!」など会話の中に簡単な英単語をはさみ込む独特の文体=ルー語でブレイクしたルー大柴さん。ずっとお笑いタレントかと思っていたら、三橋達也さんの付き人を経て、1977年にテレビドラマ『俺たちの朝』で俳優としてデビューしたそうだ。
 一昨日の東京新聞にルーさんの地元、川崎市宮前区にある宮前消防署が、ルー大柴さんを起用した火災予防ポスターを制作したという記事が掲載されていた。なんでも消防署の署長さんがもともとルー語が好きだったそうで、偶然、街中でルーさんと鉢合わせたことがきっかけだという。ポスターには「ファイアの用心」「火災予防もトゥギャザーしようぜ!」とルー語で呼びかけられている。
 ルー大柴さんを撮影したのは、「NOPETNOLIFEペットと私」という健康雑誌の連載だった。取材場所は、それまで所属していた浅井企画からマネージャーと共に退社して立ち上げたばかりのCarinoという新事務所だった。
 ルーさんのペットはドジョウで、事務所での撮影が難しいことからドジョウの写真はお借りして、インタヴュー中の写真とポートレートを撮影した。

 ドジョウを飼うキッカケは一時仕事が激減した1998年頃、息子の通う自然教室についっていって、その際に「ドジョウってかわいい」と開眼したそうだ。本人のオフィシャル・ブログに「ロウチ(ドジョウ)に魅せられて・・・」という文章が掲載されている。
 俳優、声優の他、茶人でもあるようで、遠州流茶道師範。大柴宗徹という庵号もお持ちのようだ。
 なんとなくルー大柴さんとDAIGOの芸風が似ていると感じるのは自分だけだろうか。

YouTubeから「ルー大柴テーマ曲[俺がルー大柴だ!!]ルー語、名言満載」 「【CM】日清食品 カレーメシ

ルー大柴 オフィシャル・ブログ

ルー大柴 YouTubeチャンネル

ルー語変換 本人公認

大田区田園調布 2008年11月25日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年3月号
#ルー大柴
#LouOshiba
#大柴宗徹
#SoutetsuOshiba
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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萩原流行

◯萩原流行

 東京・世田谷出身の俳優。1986年に『蒲田行進曲』で映画デビューした。奥さんは舞台女優の萩原まゆ美さん。
 大変な猫好きとして知られ、健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という連載に登場していただいた。何匹か飼われていたと思うが、その中の病気で弱っている猫と一緒に出たいということだった。とにかく猫の身体に負担がかからないよう、短時間での撮影をお願いされた。
 もう17年も前のことなので記憶も曖昧だが、吉祥寺駅近くのホテルで当時の所属事務所だったオーケープロダクション(旧大橋巨泉事務所)のスタッフ、萩原流行さんと待ち合わせて、ライターの女性がお話を聞いた。
 インタヴューが終わると車で萩原さんの自宅近くの公園へ。萩原さんが自宅から猫を連れてくる間に担当編集者をモデルにテスト撮影をして、萩原さんが公園に戻られたらそのまま本番撮影。それこそ撮影時間は5分もないくらいだったかもしれない。
 残念ながら2015年4月22日の夕方、交通事故により死去された。オートバイで青梅街道を走行中、左側から車線変更した高井戸警察署の護送車と接触して転倒。道路に投げ出されたところを後方からきた乗用車に轢かれたとみられる。享年62歳だった。

 遺骨は2019年6月1日に、湘南の海に散骨されたそうだ。

YouTubeから「アコムCM 奥山佳恵 萩原流行」 「萩原流行、最後の主演映画! 「瞳をとじて」 DVD発売 ノーベル文学賞作家アンドレ・ジッドの不朽の名作『田園交響楽』がついに映画化!

萩原流行 公式ウェブサイト(アーカイブ)

萩原流行 オフィシャル・ブログ

東京都杉並区 2007年6月5日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年9月号
#萩原流行
#NagareHagiwara
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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2月26日(水)

 ロバータ・フラックが一昨日亡くなったというニュースが昨日流れてきた。彼女の名前を知らなくても、このCMで流れている彼女の歌を聴いたことがある人は多いのではないだろうか。

 TOYOのブランドで知られる大判カメラを製作していた酒井特殊カメラ製作所(2002年からはサカイマシンツール)が先月末で廃業したそうだ。

オスマン・サンコン

◯オスマン・サンコン

 1コン2コン、サンコン!でお馴染みのオスマン・サンコンさん。本名はオスマン・ユーラ・サンコン。ギニア出身の元外交官で、タレント、作家。現在は駐日ギニア大使館顧問、日本ギニア友好協会理事長を務める。タレント活動の傍ら、講演活動やボランティア活動も行っており、2017年4月には旭日双光賞を受賞。鹿児島県徳之島の観光大使も務めている。
 歌手の北山みつきさんと2018年に結婚。サンコンさんにはすでに2人の妻がおり、彼女は第3夫人となる。息子のDJヨンコンは、レゲエ・グループの元メンバーだそうだ。
 サンコンさんを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』で編集部の高橋修さんがインタヴューと文章を担当していた「スター千夜一夜」という連載だった。この号の特集は「アフリカ音楽の新展開」と題し、サリフ・ケイタ、ロクア・カンザ、ユッスー・ンドゥールなどが取り上げられている。そのアフリカ特集にリンクした形で、「スター千夜一夜」にサンコンさんが登場したようだ。なるほどグリオやサリフ・ケイタについて、ギニア出身のサンコンさんならではの話が語られている。
 グリオについては、

「日本と違ってアフリカは、昔から文字がなかったんですね。日本の場合は図書館に行ったら歴史の資料が全部残ってるじゃない。アフリカの場合は違うのね。やっぱり残すものは言葉なの。言葉が一番大事なの。ぼくたちの国は、王様とか、あるいはどんな家庭にも、例えばサンコン家とか、必ず自分たちのグリオがいます。そのグリオたちが図書館なんですよ。グリオね、王様とかその家庭の歴史とか、町、村の歴史をぜんぶ知ってるの。昔は王様が休み時、王様のそばに座って、アフリカの楽器のコラ弾きながら、その王様のすべてを教えてあげる。”あなたのお祖父さん、こういうこと言いました”とかね。だからグリオの存在はすごく大きいんです」
 サリフ・ケイタがアメリカでレコードを製作する際には、当時、アメリカ大使館にいたサンコンさんが、ギニアの大統領からサリフに手を貸してあげなさいと言われて、大使と一緒に手を貸したそうだ。
 wikiによると、1987年12月16日に秋元康作詞の「アフリカの女」で歌手デビューもされているようだ。

YouTubeから「アフリカの女/オスマン・サンコン」 「サンコンウコン~CM オフィスバージョン編

オスマン・サンコン 公式ウェブサイト

港区・赤坂 1994年4月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年6月号
インタヴューは高橋修さん
#オスマンサンコン
#OsumaneSankhon
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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チュ・ヒョンミ

◯周炫美

 周炫美(チュ・ヒョンミ)は、中国人の父と韓国人の母との間に生まれた華僑2世のトロット(韓国艶歌)歌手。1985年に「雨降る永東橋」でデビューすると、韓国の2大ネットKBS、MBCの新人賞を獲得。1988年に発表した「新沙洞のあの人」はビッグヒットとなり、新聞社の主催する3大歌謡大賞の大賞を独占したそうだ。
 彼女を撮影したのは「悲しみがあるうちに」で日本デビューした半年ほど後のことだった。日本での発売元であるBMGビクターでの取材で、インタヴュアーは『レコード・コレクターズ』で「あばよ、昭和の歌謡曲」を連載していた野沢あぐむさん。
 なぜ日本でデビューすることになったのか、という野沢さんからの質問に、
「日本には韓国と同じ艶歌があります。これまで何回となく、日本からスカウトの方が見えました。最初は<雨ふる永東橋>でデビューした直後です。しかし、韓国では非常に忙しい時期があり、日本側にスケジュールを提供することができませんでした。今回、日本の友人を通じ、とても熱意のあるお話を聞き、正式にデビューになったわけです」と話している。

 韓国の中央大学薬学科を卒業した後は薬剤師として活動していた彼女が、なぜ歌手になったのかという問いに、
「運命です。私はシンデレラ・ガールです」と答えている。
 ちなみに、この取材でインタヴューをした野沢あぐむさんを撮影したこともある。野沢さんは春日八郎、青江三奈、羅勲児のコレクターとしても知られており、『レコード・コレクターズ』の大鷹俊一さんの連載「レコード・コレクター紳士録」の2005年3月号でご自宅へお伺いした。ご自宅には青江三奈さんのステージ衣装のドレスや靴、ピアノまで置かれていて、ちょっと驚いた。この取材は書籍としてまとめられた『レコード・コレクター紳士録2/大鷹俊一』(ミュージック・マガジン)にも再録されている。

YouTubeから「雨降る永東橋/周炫美」 「悲しみがあるうちに/周炫美

周炫美 公式ウェブサイト

 
渋谷・BMGビクター 1993年9月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年11月号
インタヴュアーは野沢あぐむさん
#周炫美
#チュヒョンミ
#주현미
#ChuHyonmi

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2月24日(月)

 今日の未明、久しぶりに体に感じる地震の揺れがあった。ずっと雪だるまのマークが並んでいたが、ようやく明日はお日様だ。

◯金延幸子

 1948年生まれ、大阪府出身(生まれは神戸という記述もある)の女性シンガーソングライター。1972年に細野晴臣プロデュースにより、伝説的なデビューアルバム『み空』を発表する。
 金延幸子さんを撮影したのは、10代後半や20代といった若い世代に『み空』が再評価される中、オリジナル・アルバムとしては5枚目となる『Sachiko』をビクターからリリースする直前での取材だった。掲載誌は『ミュージック・マガジン』で、インタヴュアーは油納将志さん。
 油納さんの原稿の中に彼女のプロフィールを記述している箇所があるので、ちょっと長いが引用させてもらう。

金延幸子
<関西フォークが全盛を誇った69年に大阪で松田幸一や中川イサト、瀬尾一三らと共に”秘密結社◯◯教団”という名で、URCからシングル「あくまのお話し」でデビュー。70年にはグループ名を”愚”と改め、同じくURCからシングル「明かりが消えたら」を発表したが、バンドは解散。彼女は上京し、大瀧詠一と出会う。それがきっかけとなり、ソロとして初めてのシングル「時にまかせて」を発表。これは大瀧にとっても初めてのプロデュース作品である。その後、はっぴいえんどをバックに従えて『み空』を制作。しかし、アメリカの音楽評論家であるポール・ウイリアムズと結婚した彼女は、発売を待たずしてアメリカに旅立ってしまう。そうして日本の音楽シーンから遠ざかり、『み空』は伝説のアルバムになったわけだ>
 渡米して2人の子供をもうけるが、その後に離婚した金延幸子さんが音楽の世界に復帰するのは21年後の1993年で、SACHIKO&CULTURE SHOCK名義でアルバム『SEIZE FIRE』を発表。以降、1995年にミディから『It’s Up To You』、1998年にSealsRecordsから『Fork In The Road』、1999年にビクターから『Sachiko』をリリースする。

 総勢15名のミュージシャンとエンジニアを起用しエスニックからハウス・ビートまで取り入れ、多彩な音作りになった『Sachiko』のミックス・ダウンは久保田麻琴さんが担当している。
 2023年には1998年にSealsRecordsからリリースした『Fork In The Road』を久保田麻琴さんがプロデュースし、伊藤大地、ASA-CHANG、幾何学模様のメンバーらがダビングで参加。新しい作品としてコロムビアから発売された。
 また、愚、秘密結社◯◯教団時代の音源も1998年に『レア・トラックス~時にまかせて』というタイトルで東芝EMIからリリースされている。

YouTubeから「み空/金延幸子」 「金延幸子「時にまかせて」Single Version Outtake (Lyric Video)」 「Sachiko Kanenobu 金延幸子 “青い魚”Blue Fish with Steve Gunn @Le Poisson Rouge NYC Oct 7 2024

金延幸子 BETTER DAYS

青山・ビクタースタジオ 1999年2月22日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年5月号
インタヴュアーは油納将志さん
#金延幸子
#SachikoKanenobu
#アーカイブ

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高野寛

◯高野寛

 1964年生まれ、静岡県三島市出身のシンガーソングライター、ギタリスト、音楽プロデューサー。
 大阪芸術大学在学中の1986年、高橋幸宏、鈴木慶一主催の「究極のバンド」オーディションに出場し合格。本来の目的だったバンド結成は立ち消えになったが、このオーディションをきっかけにビートニクスのツアーにギタリストとして参加。1988年に高橋幸宏プロデュースのシングル「See You Again」でデビュー。1990年にリリースしたトッド・ラングレンのプロデュースによるシングル「虹の都へ」がオリコン2位を記録。日本テレビ『歌のトップテン』にもランクインし、広く知られるようになる。
 ほとんどの楽曲の作詞・作曲、アレンジ、ギター、プログラミンを自ら行うスタイルで、2024年までにベスト盤を含む23枚のソロ・アルバムをリリースしている。
 また、宮沢和史らと結成したGANGA ZUMBA、高橋幸宏・原田知世らと結成したpupa(ピューパ)、BIKKE・斉藤哲也と結成したNathalie Wise(ナタリーワイズ)などのバンドでも活動。
 ここまでが、wikiと本人のサイトに掲載されていたバイオからまとめたものだ。

 高野寛さんを撮影したのは7枚目のアルバム『Sorrow and Smile』を作り終えたばかりの1995年2月で、『ミュージック・マガジン』での取材。インタヴュアーは真保みゆきさんだった。7ページのロング・インタヴューで、記事のタイトルは「グルーヴに目覚めたオタク系自作自演歌手の肉体プログラミング宣言」。
 打ち込みと、バンドによる音作りを行き来する彼の音楽制作についてたっぷり聞いているが、最後はインターネットやCD-ROMについて。
「インターネットもCD-ROMも、今のところあえて距離を置くようにしてますね。興味が全くないわけじゃないので、人づてにちょこちょこ情報入手したりしてるんですけど、今のところ自分から参加する気はないんです。特にMAC。絶対おもしろいのはわかってるから、あえて手を出してない。一種のドラッグですもん。僕のまわりにも何人かはまっている人がいて、中には、うわあ、この人大丈夫かなって(笑)ケースを見てますから。健全につきあっていけるなら、すごい可能性があるものだと思うんだけど。
 インターフェイスとか、誰もが簡単に、それこそ電話みたいに使えるようになって初めてスタートするものなのに、今のところ閉鎖性が売りなのもいやなんですよね。僕も鍛えたとか言ったところで今さらスポーツがうまくなるわけじゃなし、オタクであることに変わりはないんだけど、そこに開き直りたくはないんです。トッド(・ラングレン)のインタラクティヴ・ライヴだって、見ていてもうつらくてつらくて、楽屋に寄らずに帰っちゃったくらいだもん(笑)。えっ、新作はインタラクティヴじゃないの?よかったあ(笑)。尊敬するミュージシャンなだけに、自ら象牙の塔に閉じこもるようなああいう姿は、見たくないんです。
 MACにしても、所詮は画面だからねえ、今の段階だと。阪神大震災じゃないけど、停電したら一瞬にしてそれまでの積み重ねが消えちゃうわけだし。そういうところに自分のアイデンティティを持ってくのって、けっこうつらいものがあるんじゃないかって気が、僕にはするんです。だったら同じプログラムの感覚で、自分の肉体にプログラムさせたほうがいい。よく言うじゃないですか、カラダで記憶したことは一生忘れないって(笑)。曲を練習する時も、最近はそういう感覚でやってるんですけど」
 取材した1995年は、ネットもCD-ROMも黎明期だった。自分のことで言うと、MACは持っていたけれどインターネットには接続していなかった。そして翌1996年に、まつもと泉が企画したCD-ROMで見せるマンガ『COMIC-ON』の制作に携わる。
 この取材からやがて30年、インターネットとデジタルで世界は大きく変わった。そんな移り変わりを思い出させる記事だった。
*トッド・ラングレンのインタラクティヴ・ライヴの様子は、こちらに。

YouTubeから「虹の都へ/高野寛」 「夢の中で会えるでしょう/坂本龍一&高野寛

高野寛 公式ウェブサイト
https://www.haas.jp

赤坂・東芝EMI 1995年2月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年4月号
インタヴュアーは真保みゆきさん
#高野寛
#HiroshiTakano
#アーカイブ

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2月22日(土)

 2月22日はニャンニャンニャンで猫の日というのが1987年に制定され、ペットフード工業会が主催しているそうだ。その猫の日に合わせて、科学雑誌『Newton』が『Nyaton』を、朝日新聞の週刊誌『AERA』が『NyAERA』という増刊号を出しているのを初めて知った。

 この他の気になった記事を備忘録として。
人口が流出する沖縄・来間島 祭祀をつかさどる「神おばぁ」高齢化不安 継承へ担い手6人の「シフト制」に
高額療養費見直し「死に追いやる決定」「戦後最大の汚点」 島根知事

神尾米

◯神尾米

 昨年の朝ドラ『虎に翼』では土居志央梨さん演じるヨネさんが話題になったが、こちらは元テニスプレイヤーのヨネさん。撮影中の雑談で、小さい頃に学校の先生が彼女に気を遣って米を「マイさんと読むの?」と聞いたという話を笑ってされていた。
 スポーツ全般に疎いのでプロフィールはwikiを参考にさせていただくと、1971年11月22日生まれ、横浜市出身。母親の影響で10歳からテニスを始め、高校卒業後の1990年にプロへ転向。1994年の全日本テニス選手権でシングルス優勝、1996年にダブルス優勝。シングルの自己最高ランキングは1995年の24位で、当時の日本女子では伊達公子、沢松奈生子に続く3番手だった。しかし、慢性的な肩の故障を抱え、1997年2月の全日本室内テニス選手権での優勝を最後に、25歳で現役を引退した。
 引退後はテニスの指導に携わる傍ら、タレントとしてスポーツ番組や「ウッチャンナンチャンのウリナリ」などバラエティー番組にも出演していた。現在は日本テニス協会の理事の1人に名を連ねている。

 神尾さんを撮影したのは、「NOPETNOLIFEペットと私」という健康雑誌の連載だった。指定された駅で待ち合わせて、マネージャーさんの運転する車でカフェに移動して取材。インタヴューの後、近くの公園で彼女の愛犬、ミニチュアダックス2匹と撮影した。
 ところで、長兄の神尾元治さんはインディーズ・レーベルの音楽会社「タフビーツ」の代表で、裸のラリーズやOKI DUB AINU BANDなどが所属している。また次兄の神尾光輝さんは、サーフィンフォトグラファーとして活動しているそうだ。

YouTubeから「Monica Seles vs Yone Kamio 1995 US Open R3 Highlights」 「1995年頃のCM 神尾米 ブリジストン テニスラケット TECHBEAM テックビーム

横浜・あざみ野 2007年12月26日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年5月号
#神尾米
#YoneKamio
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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パンチ佐藤

◯パンチ佐藤

 パンチの愛称で知られる元プロ野球選手。亜細亜大学卒業後、社会人野球の熊谷組に入社するが、1989年にドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。wikiによると1994年、打撃コーチの新井宏昌氏の提案、そして新監督に就任した仰木彬氏の承認を得て鈴木一朗の「イチロー」と共に、ニックネームとして定着していた佐藤の「パンチ」を登録名にしたそうだ。
 1994年11月4日に引退した後は、野球解説者としてテレビのプロ野球中継に出演する他、タレントとしてスポーツバラエティ番組やドラマ、映画、CMにと活躍の場を広げた。オフィシャル・ブログによれば、最近は講演会にも力を入れているそうだ。
 パンチさんを撮影したのは、健康雑誌で担当していた「NOPETNOLIFEペットと私」という連載ページだった。撮影場所は、パンチさんから指定された駅(たぶんお住いの最寄り駅)近くの遊歩道で午後からの撮影だった。その日は午前中から雨が降ったり止んだりの不安定なお天気で、急遽担当編集者が撮影場所近くのドッグカフェを探して、雨が降った場合はそちらで撮影できるように手配してくれた。

 幸い撮影時間帯は曇りで外での撮影ができたので、天気が変わらないうちにと、挨拶もそこそこに愛犬と顔を寄せてのツーショット、散歩風景、愛犬の単独写真などを10分ほどの間で撮影させていただいた。
 ドッグカフェでの撮影になった場合に使おうと思って用意していたモノブロック・ストロボ2灯、グリップ・ストロボ2台は出番がなく、折りたたみの銀レフ一枚で済んだ。
 撮影の後に、パンチさんのインタヴューがあり、担当編集者、ライターの女性と一緒に近くの喫茶店で話を伺った。
 愛娘の佐藤華純さんも2023年に芸能界入りし、タレント活動をされているようだ。

記録よりも記憶に残る男 佐藤和弘」 「【懐かしのCM】アース製薬 おそとでノーマット【パンチ佐藤】

パンチ佐藤 オフィシャル・ブログ

神奈川県・川崎市 2008年9月4日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年12月号
#パンチ佐藤
#PunchSato
#佐藤和弘
#KazuhiroSato
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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2月20日(木)

 田中勝則さんの新著『ブラジル音楽歴史物語』(ミュージック・マガジン)が、ようやく昨日届いた。郵便受けを見ると、ずいぶん封筒が厚かったので2冊入っているのかと思ったら522ページもある本だった。今回献本されてきたのは、自分が過去に撮影した写真が2点ほど使われているからだが、ブラジルのミュージシャンの写真ではない。インドネシアの歌手、ワルジーナさんのレコーディング風景と、インドネシアのクロンチョン楽団を撮影した写真だ。この写真が「パルチード・アルトのミステリー」と題された2ページのコラムの中で使用されている。
 コラムの最後はこのような文章でしめられている。
<ブラジルに続いて、同じポルトガル系の音楽ルーツを持つインドネシアやマレイシアなどでぼくがレコードを多く作ったのが90年代後半だが、同じくポルトガル音楽のルーツを引き継いだハワイ音楽の達人である山内雄喜さんのアルバムも含めて、当時ぼくはよくこのようにブラジルとインドネシアの間でテープを行き来させて、さまざまな共演を試みた。この時期に作ったアルバムには、世界に二つとない音楽がたくさん詰まっている>
 その頃、田中さんが手がけたアルバムの何枚かで自分も撮影で参加している。 
ブラジル音楽歴史物語
ジ・オトゥールズ

◯ジ・オトゥールズ ルーク・ヘインズ

 サーヴァンツのギタリストだったルーク・ヘインズがバンドの解散に伴い、自宅にこもって曲作りを始め、1人で全ての楽器を演奏して6曲入りのデモテープを制作。1991年に元サーヴァンツのベーシストでありルークの恋人だったアリス・リードマン、かつての級友でドラマーのグレン・コリンズとジ・オトゥールズを結成。1993年にハット・レコードからデビュー・アルバム『ニュー・ウェイヴ』をリリースする。
 このデビュー・アルバムについてルークは、「あれは僕のソロ・アルバムといっても過言ではない。僕の作ったデモをスタジオに入って再現したものなんだ。本当はデモをそのまま出してもよかったんだけど、レコード会社が音質をもっと良くしろと言うんでね」と、『ミュージック・ライフ』の取材に答えていた。
 ルーク・ヘインズを撮影したのは、2枚目のアルバム『ナウ・アイム・ア・カウボーイ』がリリースされた翌年、1995年の1月だった。ルークが足を骨折したため延期になっていた来日公演がようやく実現し、そのタイミングでの取材だった。

 媒体は『クロスビート』でインタヴュアーは小暮秀夫さんだったが、その時に撮影した写真は同じシンコー・ミュージックの『ミュージック・ライフ』でも使われ、こちらは駒形四郎さんがインタヴューをしている。
 まだ杖をついて歩いているルークに、小暮さんが足の骨折のことを尋ねると、
「それはもちろん事故だよ。わざと骨折なんてするわけないだろ(笑)。ヨーロッパ・ツアーの中盤でフランス公演の時に地元の警察といざこざがあったんだ。おそらくもう一生フランスでライヴをやることはないだろうな。フランスの警察は世界で最低だよ!だからスペインに着いた頃にはメンバーが皆クレイジーになっていてね。とくに俺は他のメンバーよりちょっとクレイジーだったらしくて、壁によじ登って15フィートの高さからコンクリートの地面に飛び降りてしまったんだ。それで両足首を折ってしまい、救急車で運ばれたと言うわけさ。休暇が欲しいところだったから、まさにグッド・タイミングだったね(笑)」
 取材では次のアルバムについても語っており、スティーヴ・アルビニにプロデュースを頼んでいるといっていた3枚目のアルバムが1996年に発売された『アフター・マーダー・パーク』だった。
 ジ・オトゥールズは1999年に4枚目のアルバム『ハウ・アイ・ラーンド・トゥ・ラヴ・ザ・ブートボーイズ』をリリースすると同時に、ラスト・ライヴを行って解散した。
 ルーク・ヘインズは現在、ソロで音楽活動を行うと共に画家としても活動しているそうだ。
 ところで、取材場所はどこだったかと当時のスケジュール帳で確認すると渋谷の東急ハンズ近くにあったルノアールだった。インタヴューに答えたのはルークだけだったが、フォトセッションでは彼の恋人でベーシストのアリス・リードマンも加わった。
 小暮さんが、他のメンバー2人は?と尋ねると、
「他の二人は魚河岸に行っちゃったんだ(笑)。彼らは生まれついての旅人だからね」
 
YouTubeから「The Auteurs - Lenny Valentino (Jools Holland 94)」 「The Auteurs - New French Girlfriend

ルーク・ヘインズ Instagram

ルーク・ヘインズ YouTubeチャンネル

渋谷・ルノアール 1995年1月12日撮影
初出『クロスビート』(シンコーミュージック )1995年3月号
インタヴュアーは小暮秀夫さん
初出『ミュージック・ライフ』(シンコーミュージック )1995年3月号
インタヴュアーは駒形四郎さん
#ジオトゥールズ
#TheAuteurs
#ルークヘインズ
#LukeHaines
#アリスリードマン
#AliceReadman
#アーカイブ

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マーク・スチュワート

◯マーク・スチュワート

 イギリス・ブリストル出身のポストパンク・バンド、ザ・ポップ・グループの結成メンバーの一人で、ボーカルと作詞を担当。wikiにはノイズ・インダストリアル、ヒップ・ホップ、テクノなどの幅広いジャンルのエッセンスが加えられた、ヘビーなダブ・ファンクのサウンドに社会的メッセージを乗せ、叫ぶように歌うと書かれている。
 マーク・スチュアートを撮影したのはシンコー・ミュージックの洋楽雑誌『クロスビート』の「怪人紳士録」という小野島大さんのページだった。1995年10月31日、ポニーキャニオンでの取材で、ザ・ポップ・グループ以外のアルバムとしては5枚目となる『コントロール・データ』が発売されるタイミングだった。小野島さんは前回の来日時にも取材しており、この時が2回目のインタヴュー。
 この撮影があるまでマーク・スチュワートもポップ・グループも知らなかったので、インタヴューとは別に小野島さんが書いたコラムを参考に簡単な略歴を記すと、

<マーク・スチュワートのキャリアはザ・ポップ・グループに始まる。当時まだ10代だった5人組は、レゲエ・グループ=マトゥンビのデニス・ボーヴェルのプロデュースで79年、アルバム『Y』でデビュー。1981年にザ・ポップ・グループを解散後は、エイドリアン・シャーウッドのON-Uサウンド・レーベルと交流を深め、レゲエ・グループ=クリエイション・レベルをバックに配してマーク・スチュワート&マフィアを結成。エイドリアンのプロデュースで83年にアルバム『Learning to Cope with Cowardice 』を発表。次にニューヨークのヒップホップ・レーベル=シュガーヒルのハウス・バンドだったタックヘッドをマフィアとして起用し、85年、87年、90年と3枚のアルバムを制作。そして5年間の沈黙を破って最新作『コントロール・データ』が発表された>
 これが取材した当時までの略歴だ。彼の音楽を聴いたことがなかったが、小野島さんのインタヴューで彼がCD-I(コンパクトディスクインタラクティブ)などのインタラクティヴ性について語っていたのが興味深かった。この頃、まつもと泉とCD-ROMで見せるコミック『COMIC-ON』の制作に携わっていたので、インタヴューの後のフォトセッションで興味があるか尋ねると「興味がある」と答えてくれた。
 ザ・ポップ・グループは2010年に再結成され、2011年のサマーソニックで初来日を果たしたそうだ。
 残念ながらマーク・スチュワートは2023年4月21日に亡くなった。62歳だった。1960年生まれなので、同い年だった。
 フォトセッションでは、こちらがポーズをお願いしたわけではなく、サービス精神が旺盛なのか酔っ払っていたのかシャッターを切るたびに変顔をしてくれた。

YouTubeから「pop group on belgian tv 1980

mark stewart and the maffia - hysteria

マーク・スチュワート 公式ウェブサイト

中央区入船・ポニーキャニオン 1995年10月31日撮影
初出『クロスビート』(シンコー・ミュージック)1996年1月号
インタヴュアーは小野島大さん、通訳は染谷和美さん
#マークスチュワート
#MarkStewart
#ザポップグループ
#ThePopGroup
#アーカイブ

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2月18日(火)

 しばらくお天気が良くてだいぶ雪が溶けていたのに、また寒波襲来で積もりそうだ。
また雪
 CD-Rが普及する前はフィルムからスキャンしたデータやPhotoshopで加工したデータはMOディスクに保管していた。そのMOディスクに入っているデータを、昨日外付けハードディスクに移した。新しいOSのパソコンではMOディスクを認識しないので、2007年12月に購入したOS10.5.8のMacBookに、2002年11月に購入したMOドライヴを接続した。これだから古いパソコンも処分できない。
MOディスク

←MOディスク。ほとんどが230MBのディスクだが、中には128MBのディスクもある。CD-RやDVD-Rが普及するまでは、データの保管やデータの受け渡しはMOディスクを使っていた。

↓2007年に購入したMacBookに、2002年購入のMOドライヴを接続。どちらも長い間通電していなかったが作動してくれて良かった。

MOディスクのデータを外付けディスクにバックアップ

◯おばぁラッパーズ

 おばぁラッパーズを知ったのは、那覇の桜坂劇場で観た新田義貴監督の映画『歌えマチグヮー』だった。60年の歴史がある那覇の栄町市場だが、大型スーパーの進出などで少しずつ活気が失われていく中、音楽をキーワードに元気なマチグヮー(市場)を復活させようという人々のドキュメンタリーで、その中心にいるのがおばぁラッパーズであり、マルチーズロックのボーカル・もりと(糸満盛仁)ら他所から来た若者たちだった。
 『歌えマチグヮー』の公式ウェブサイトに掲載されている、おばぁラッパーズのプロフィールを引用させてもらう。
<生まれも育ちも栄町の3人組ラッパー。ウチナーグチ(沖縄方言)のライムを交えながら、ラップのリズムに乗って市場への愛を歌う。メンバーは看護師の新城カメ(カメー)、八百屋ハイサイ食品の高良多美子(うしぃ)、リサイクルショップともの上地美佐子(カマドゥ)。「栄町市場おばぁラップ」、「おばぁラップブギ」の2曲が持ち歌。栄町市場屋台祭りの他、最近では全国の商店街や町おこしNPOに呼ばれ飛び回っている>
 映画を観たのは2012年10月15日で、その月の最終土曜日に映画の舞台である栄町市場屋台祭りに行き、おばぁラッパーズのラップを体験してきた。
 栄町市場屋台祭りは毎年6月から10月の最終土曜日に開催され、11月は〆となる感謝祭が行われる。約2年の沖縄滞在中に屋台祭りは5回、感謝祭は1回見ることができた。
 掲載した写真は2013年8月31日、自分が見た3回目の屋台祭りでのおばぁラッパーズのステージ。
 栄町市場商店街は屋台祭り以外でもちょくちょく自転車で行き、おばぁラッパーズの一人うしぃこと高良多美子さんのハイサイ食品で時々野菜や果物を買うこともあった。

YouTubeから「『歌えマチグヮー』予告編」 「おばぁラッパーズ 那覇栄町市場屋台まつり 2014」 「栄町市場おばぁラッパーズ / おばあラップブギ 栄町市場屋台祭り2018

『歌えマチグヮー』 公式ウェブサイト

栄町市場商店街 Instagram

那覇・栄町市場商店街 2013年8月31日撮影
#おばぁラッパーズ
#新城カメ
#KameArashiro
#カメー
#高良多美子
#TamikoTakara
#うしぃ
#上地美佐子
#MisakoKamiji
#カマドゥ
#歌えマチグヮー
#栄町市場屋台祭り
#アーカイブ

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おばぁラッパーズ

◯栄町市場屋台祭り

 ひめゆり学徒隊で有名な沖縄県立第一高等女学校の跡地にできたのが栄町市場。栄町というのは町名ではなく、あくまでも市場の名前で1955年(昭和30年)に住民による投票が行われ、当時の真和志村の村長が決定したそうだ。
 かつては那覇市の中心街として大いに栄えていたそうだが、大型スーパーの進出などにより衰退。そこで市場の人々は音楽をキーワードに活気を取り戻そうと試みる。その試みを記録したのが2012年に封切られた新田義貴監督のドキュメンタリー映画『歌えマチグヮー』だった。映画の登場人物は生まれも育ちも栄町の3人組=おばぁラッパーズであり、マルチーズロック のボーカル・もりと(糸満盛仁)ら他所から来た若者たち、そして舞台の一つになるのが栄町市場屋台祭りだった。
 栄町市場屋台祭りは毎年6月から10月の最終土曜日に開催され、11月は〆となる感謝祭が行われる。約2年の沖縄滞在中に屋台祭りは5回、感謝祭は1回見ることができたが、掲載した写真は初めて見た2012年10月27日のもの。この日は首里城祭の2日目で、首里城で琉球国王の即位式を再現した冊封儀式などを撮影した後、市場に向かった。市場に着くと、ハロウィンが近かったので子供たちが仮装してはしゃぎ回っていた。
 17時30分頃にスタートして、終わったのは22時近かったと思う。この日は『歌えマチグヮー』が桜坂劇場で上映中だったこともあり新田義貴監督の挨拶があったり、市長時代の翁長雄志さんが顔を出していた。屋台や総菜屋さんで買った鶏の唐揚げ100円、オリオンビール200円、ポーク玉子おにぎり100円、ごぼうの天ぷら50円、天ぷら3個100円を頬張り、お土産に肉味噌200円、漬物100円を買ってステージを楽しんだ。

YouTubeから「ダウンタウンパレード?マルチーズロック 」 「Soul Train 、TSOP, Stop in the name of love, Think/栄町ダンサーズ」 「栄町市場祭り 2023.6.24 子ども飛び入りで大盛り上がり/ おばぁラッパーズ・永楽・栄町シンガーズ 沖縄 那覇

栄町市場商店街 公式ウェブサイト(アーカイブ)

栄町市場 facebook

栄町市場とは?

那覇市栄町市場 2012年10月27日撮影
#栄町市場屋台祭り #松城太鼓 #宮城康治 #梅田潤 #市場シンガーズ #新城カメークルサーター #翁長雄志 #ゆうたKINO #テリーズバンド #栄町ダンサーズ #新田義貴 #もりと #おばぁラッパーズ #永楽 #カチャーシー #アーカイブ

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栄町市場屋台祭り

2月16日(日)

 今日は3月下旬ごろの気温まで上がったようで、日中は過ごしやすかった。毎日毎日アーカイブ作業でパソコンの前に座っていて運動不足なので、午前中に久しぶりに電子ドラムを叩いた。午後にはこれまた久しぶりに1時間ほど自転車でブラブラ。おかげで久しぶりに携帯電話の万歩計は1万越えの10110歩になった。
お雛さま飾り01
お雛さま飾り02

↑今日、お雛さまを箱から出して母親が飾った。相変わらずテーブルの上にはお雛さまじゃない人形も並べられ、いろいろと渋滞している。

←よく見ると賀正の文字が貼られた小さな鏡餅も並べられている(笑)。鏡餅の右隣は、妹が持ってきた饅頭。

 明日から、また寒気が流れ込み雪の日が続くそうだ。
S・アタン

◯S・アタン

 田中勝則さんのfacebookへの書き込みで、マレイシアのアコーディオン奏者で音楽プロデューサーのS・アタンさんが昨年11月16日に亡くなられていたことを知った。訃報を知らせるクアラルンプールのニュース記事によると、細菌による肺感染症のため自宅で亡くなったという。享年75歳だった。
 近年は健康問題と闘っていたとも書いてあり、2006年に脳卒中を患い、2019年には腎臓の問題で入院したそうだ。
 アタンさんを撮影したのは、2000年の1月だった。前年に『ハワイ・ポノイ』というアルバムを発売した山内雄喜さんと『ドンダン・サヤン』という初めてのソロ・アルバムを発売したばかりのS・アタンさんのレコード発売記念ジョイントライヴが22日に青山のCAYで行われ撮影に行った。23日には新宿のタワーレコードでもアタンさんのレコード発売記念イヴェントがあり、イヴェントの後にポートレートを撮っている。このポートレートは『ミュージック・マガジン』2000年3月号の「ミミスマ 世界音楽事情」というページに掲載されているので、ミュージック・マガジンでの仕事で撮影したのかもしれない。インタヴューと文は真保みゆきさん。

 『ハワイ・ポノイ』『ドンダン・サヤン』共に田中勝則さんのプロデュースで、山内さんのアルバムにアタンさん、アタンさんのアルバムに山内さんがそれぞれ参加している。『ドンダン・サヤン』のライナーノーツには田中さんによるアタンさんの詳しい音楽キャリアが書かれているが、引用すると長くなるのでCDの帯に書かれた文章を紹介させていただく。
<マレイシア音楽の影の大物S・アタンが遂にソロ・アルバムを発表してくれた。サンディーのアルバムでいつも哀愁ただようアコーディオンを演奏しているS・アタンは、本国では伝統歌謡の最高のプロデューサー。シティ・ヌールハリザの傑作『チンダイ』などを手掛けてきた。そんな彼の新録による初ソロ・アルバムがこれ。世界の海の交差点と言われるマラッカ海峡を抱えるマレイシアならではの多彩な音楽伝統を総括しつつ、時に優しく、時にアグレッシヴにアコーディオンが飛び跳ねる。これほどアジアのテイストを感じさせるアコーディオン・アルバムは他にない>
 3枚目の写真、22日の青山CAYでのライヴに写っているのは左から山内雄喜、S・アタン、サンディー、RIKKI。

YouTubeから「Siti Nurhaliza - Cindai (Official Music Video)」 「Bunga Tanjung - Dr. Shafa’atussara Silahudin & Datuk S. Atan

ドンダン・サヤン ライス・レコード

新宿タワーレコード 2000年1月23日撮影
『ミュージック・マガジン』2000年3月号
インタヴュアーは真保みゆきさん
#Sアタン
#SAtan
#ハシムサイド
#HashimSaid
#山内雄喜
#YukiYamauchi
#アラニ
#ALANI
#サンディー
#Sandii
#リッキ
#Rikki
#アーカイブ

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サヨコ

◯サヨコ

 ゼルダの高橋佐代子が単身ジャマイカに渡り、スライ&ロビーほか現地のミュージシャンと作り上げたサヨコ名義のアルバム『MI・LUV・YU(ミー・ラヴ・ユー)』のリリースを記念して行われたライヴの写真で、雑誌の仕事ではなくCDの発売元であるcutting edgeのディレクターだった本根誠さんからの依頼で撮影したものだと思う。掲載したのはcutting edgeに渡さなかった(選ばなかった)残ポジだろう。
 CDの発売が1995年2月22日で、ライヴはその一ヶ月ほど後の3月23日に渋谷クラブクアトロで行われた。
 ゼルダは1980年代から90年代にかけて活動していたガールズバンドで、そのボーカルと作詞を担当したのが高橋佐代子さん。これまでOTOらと結成したバンド、プードラゴジランボでのライヴ写真や、ドミニカ共和国から来日した女性だけのメレンゲ・グループ、ラス・チカス・デル・カンのステージに小嶋さちほさんと一緒に飛び入りで出演した際にも撮っており、この時が3回目の撮影だったと思う。

 2004年にギターのOTO、ジャンベの奈良大介の3人でサヨコオトナラを結成し、『ワと鳴り』『トキソラ』の2枚のアルバムを発表している。

YouTubeから「MI・LUV・YU/サヨコ」 「黄金の時間(live)/ZELDA」 「アサのアサ/サヨコオトナラ

渋谷・クラブクアトロ 1995年3月23日撮影
#サヨコ
#Sayoko
#高橋佐代子
#高橋小夜子
#SayokoTakahashi
#ゼルダ
#ZELDA
#アーカイブ

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2月14日(金)

 能登半島地震の影響で富山湾の白えび、ベニズワイガニが記録的な不漁に見舞われたことを受け、新湊の西宮神社が4月19日の春季例祭で、新湊沖で海の安全と豊漁を祈る<ボンボコ祭>を18年ぶりに行うことが決まった
 富山の祭りと行事を追いかけて、『とやま、祭り彩時季』を製作している時に是非とも撮影したい祭祀の一つだったが叶わなかった。ボンボコ祭は不漁や海難事故などが起きた年の翌年に実施されるので、ボンボコ祭がないことは漁師にとっては良いことなのだけれど。また、大漁旗を飾った20隻ほどの漁船が出るなど、準備や資金が大掛かりで簡単には開催できないと神社の方がおっしゃっていた。
 祭祀は撮影できなかったが、神事で奉納されるボンボコ舞は、令和元年10月31日に新湊の海洋丸パーク展望台で行われた「越中国大祓」という祭典で撮ることができた。
 西宮神社は漁師町の神社なので、このボンボコ祭だけではなく新湊の漁師たちの間で行われる「澗建(またて)のえびす様渡し」を斎行されている。澗建とは漁法ごとに作られた漁師の組合で、定置網・小型底引き網・篭縄・刺し網・一本釣り・延縄の5つの澗建があるそうだ。
 毎年11月の第3土曜日に澗建から澗建へと厨子に入れられたご神体のえびす絵像の他、漁場を描いた絵図や黄金の鮑の大盃が渡される。
ボンボコ舞
えびす様渡し01

↑令和元年10月31日に、新湊の海洋丸パーク展望台で開催された「越中国大祓」で奉納されたボンボコ舞。

←毎年11月の第3土曜日に、澗建から澗建へと厨子に入れられたご神体のえびす絵像などが運ばれる。

↓大きな厨子を担いでいるのはこれから1年間、ご神体のえびす絵像を預かる頭屋(とうや)の若衆。

えびす様渡し02
 この他の気になった記事を備忘録として。
チェルノブイリ原発が損傷 ロシアの無人機攻撃とウクライナ
高額療養費の見直し 長期治療者向けの負担増を見送りへ 厚労相表明
福島第一原発 除染土「再生利用」本格化へガイドライン案
アグネス・チャン

◯アグネス・チャン

野を駆けトンボを追いかけていた子供が
おどろきを知ったのは あれは昨日のこと
空に走る雷の音に恐れることを知り
流れ星に涙うかべたのは・・・
そして季節はめぐりめぐり
色つきの木馬は上がり下がり
私たちは時のメリーゴーラウンドに
つかまったまま
引き返すこともできず
通りすぎた場所を振りかえりながら
時の輪の中をまわり続けていくだけ

 上の歌詞は、映画『いちご白書』の主題歌にもなった、ジョニ・ミッチェルの「The Circle Game」の日本語訳。
 この曲を最初に聴いたのはジョニ・ミッチェルのものではなく、中学生の頃に買ったアグネス・チャンのLP『ひなげしの花』のB面一曲目に収録されていた「サークル・ゲーム」でだった。

 当時、自分でギターを弾いて歌う香港から来たアイドルに、ちょっと魅了されていた。

 やがて16年前に、その頃担当していた健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という連載で、彼女を撮影した。取材場所は広尾にある彼女の事務所「トマス・アンド・アグネス」で、なんだかメルヘン調のお城のような内装に驚いた。アグネスのペット・・・というより、彼女の子供が飼っているペットが取材対象で「きょうちゃん」と名付けられたトカゲだった。きょうちゃんの撮影は難しいということで写真をお借りすることになっていて、撮影はインタヴュー中の写真とポートレートだけだった。フォトセッションでは少しでも気を引こうと、中学生の頃にファンだったことを彼女に話してアピールしながら撮影した。
 この撮影の翌年、奄美大島に移住したが、奄美大島でアグネス・チャンの講演を聞く機会があった。
 2011年の4月、木原家のお墓がある鹿児島を経由して両親が奄美大島に遊びにきた。鹿児島からフェリーで奄美大島に着いた翌日で、滞在していたホテルからマングローブ・パークへ行きたいという電話がかかってきたのでバスの営業所で一週間乗り放題のチケットを3枚購入した。ホテルに迎えに行くと雨が降っているのでマングローブ見学はやめて、遠くに行くバスに乗って帰ってくるだけでいいという。それも楽しみ方の一つだが、「今日、ホテルの近くにある文化センターで、アグネス・チャンの無料講演会があるよ」と話すと、「アグネスがいい!」と声を揃えて答えた。
 講演は奄美ロータリークラブ創立50周年記念事業で開催されたもの。開演の3時30分まで朝仁海岸を散歩し、せっかく買ったバス乗り放題のチケットで会場に向かった。
 当時のメモによると、題材は「水の惑星に生まれて~美しい海と森について~」。終了予定の5時を少しすぎて、最後に手話を交えてアカペラで1曲歌った。
 講演の後、両親とご飯を食べようと中心部へバスで出かけたら、彼女の講演帰りの人が多くて、普段はガラガラのバスが珍しく混んでいた。

YouTubeから「The Circle Game/陳美齡 Agnes」 「ひなげしの花/アグネス・チャン

アグネス・チャン 公式ウェブサイト

アグネス・チャン オフィシャル・ブログ

渋谷区広尾 2009年5月8日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年10月号
#アグネスチャン
#Agnes Chan
#陳美齡
#金子陳美齡
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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岡田徹

◯岡田徹

 2023年2月14日にムーンライダーズのキーボーディスト、岡田徹さんが心不全で亡くなった。73歳だった。それから、今日で2年が経つ。その訃報を伝えた音楽ナタリーの記事によれば2021年初頭に圧迫骨折し、入院加療を経てリハビリを続けていたそうで、2022年9月に開催されたムーンライダーズの東京・昭和女子大学人見記念講堂公演への出演を予定していたが、全快に至らずライヴを欠席。その後も埼玉・狭山稲荷山公園で4月に開催される『ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル2023』に出演することを目標に、希望を持ってリハビリに励んでいたそうだ。
 岡田徹さんを撮影したのは 、1998年にリリースされたムーンライダーズの16枚目のアルバム『月面賛歌』を取り上げた『ミュージック・マガジン』の特集だった。6ページの記事で、鈴木慶一さん、かしぶち哲郎さん、岡田徹さんというメンバー3人に服部武さんがインタヴューをしている。その中で、岡田徹さんの撮影を担当した。取材場所はアモール・スタジオという、たしか岡田さんのスタジオでアパートの屋根の上に巨大な音叉のようなものが立っていた。

 インタヴューはもちろん新しいアルバムのことが中心だが、ムーンライダーズとは?という話に進み、こんな風に答えている。
「僕にとってのライダーズ?そうだな・・・時が経つにつれ、ライダーズは僕の中でファンタジーになってきたような気がする。ときめきを求めていつでも出入りができる存在とでも言うのかな。確かに売上とかいろいろとシビアにならなきゃいけないこともあるけど、それすらファンタジーの中のシビアさという感じなんだ。それにしても、売れていないといっても僕たちの場合は次に繋がるだけの枚数は確保している。かといって、楽観できるほどじゃないんだけど。まるで総量規制がなされているみたいだね(笑)」
 岡田さんはムーンライダーズ以外にも、松浦雅也、安部隆雄と「AMOR」、大所帯アコーディオンバンド「LIFE GOES ON」、山本精一、伊藤俊二と「ya-to-i」他、様々なバンド、ユニットで活動していた。
 プレイステーションのコマーシャルのサウンドロゴは岡田さんであり、「プリンセス プリンセス」というバンド名の命名者でもあるそうだ。

YouTubeから「東京ぬけみちガール/岡田徹」 「okada toru(moonriders)-life gose on」 「Cycle/ya-to-i

中落合・アモール・スタジオ 1998年6月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年8月号
インタヴュアーは服部武さん
#岡田徹
#ToruOkada
#ムーンライダーズ
#Moonriders
#アーカイブ

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2月12日(水)

 NHKの番組『サラメシ』が、新年後の番組改編に伴い、今年度末で終了するそうだ。毎回観ていたわけではないが、好きな番組なのでちょっと残念だ。
 マジカル・パワー・マコさんの訃報が流れてきた。

ウイリー・ナガサキ

◯ウイリー・ナガサキ

 ラテン・パーカッショニストのウイリー・ナガサキさんを最初に撮影したのは中村とうようさんからの依頼で、ピアニストの金井さちよさんとのデュオ用のアーティスト写真を撮って欲しいというものだった。宿河原のアパートに住んでいた頃で、リビングが12畳ほどあったので当時は時々リビングでアーティスト写真を撮影することがあって、お二人にアパートへ来ていただいた。
 2002年のスケジュール帳の6月30日の欄に3:00~ウイリー・ナガサキというメモがあるのでこの日かもしれない。黒バックでウイリーさんと金井さんお一人ずつと、お二人揃った写真を撮った気がする。検索すると横浜のジャズ・ライヴ・レストラン『BarBarBar』で、2015年8月8日にウイリー・ナガサキ&金井さちよスペシャルバンドの出演が確認できた。また、湯川れい子さんの2015年10月28日のX(旧ツイッター)に、金井さんとウイリーさんのライヴを見たというツイートも発見した。長く一緒に活動されていたようだ。

 その次の撮影もとようさん絡みで、とうようさんが企画とプロデュースを担当したウイリーさんのリーダー・アルバム『海上の道ートリビュート・トゥ・アフロカリビアン・リズムス』(ソニー)のジャケットのインナー(ブックレット)に使用する写真の撮影だった。2003年12月29日にレコーディングの様子をリハーサル中に撮影。そしてブックレットに入れるプロフィールとバックインレイ用のポートレートを、年が明けた2004年1月10日に宿河原のアパートで撮影した。
 最後に撮影したのは2004年1月16日で、これは『レコード・コレクターズ』で大鷹俊一さんが連載している「レコード・コレクター紳士録」の取材だった。川崎市にあるウイリーさんのご自宅へお伺いしてコレクションとポートレートを撮影している。ウイリーさんのリーダー・アルバム『海上の道ートリビュート・トゥ・アフロカリビアン・リズムス』の発売に合わせたプロモーションの一つで、これもとうようさんのアイデアではないかと勘ぐっている(笑)。
 紳士録では小学6年生で出会ったサンタナのアルバムや、ティト・プエンテのラテン・パーカッション・クリニックに参加した話し、松岡直也さんのバンドを辞めてニューヨークへ向かった話などが語られている。そして最後はアルバムのこと。
「今度のアルバムのタイトルはとうようさんが付けられた『海上の道』というんですが、最初に話をいただいたときにアフリカから始まってプエルトリコ、キューバをめぐって今の時代に戻り、アフロ・カリビアンの全体像が見えるようにしたいと言われたんです。私はスタジオ・ミュージシャン的な仕事はほとんどやってないように、短時間に音楽を構築するってのは苦手な人間なんですよ。そのあたりを松岡さんは理解してくれていたんですけど、今回も長く一緒にやっている平田(フミト)くんに頼んでシミュレイションで音を作ってもらい、それを身体に十分染み込ませてレコーディングにのぞみました。で、結果として古い時代のルンバからプエンテやマチートのようなハードコアな演奏もあり、エレガンスなラテン・ジャズもありと、色々わがまま言って作らせていただきました」
 アルバム『海上の道』のブックレットに掲載されているプロフィールを引用させていただく。
<福岡県出身。1979年、ラテン音楽界のゴッドファーザー、ティト・プエンテ、そしてアフロキューバン・パーカッションの巨匠カルロス・パタート・バルデスの来日時に彼等の指導を受けたのを機にミュージシャンを志す。
1983年には日本のラテン音楽のパイオニア松岡直也に見いだされ、彼のグループ、ウィッシングに参加。その一員としてスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、フランスのニース・ジャズ・フェスティバルなどに出演。その後単身ニューヨークに渡り、サウス・ブロンクスを中心に展開されるラテン・ジャズの一流ミュージシャンたちとの交流により、更なるラテンミュージックの理解を深める。
帰国後は、ブロンクス・パーカッション・スクールを主宰し後進の指導に当たるとともに、複数のグループを率いて幅広く活動。青山CAYで定期的に開催されるイベント「ラテン・ハーレム」では、企画の中心となり、ニューヨークから親しいミュージシャンをゲストに招いて共演しているほか、故ティト・プエンテ来日時には恩師ティトのサポートも勤める。特にティンパーレスの演奏においては、ティトの数少ない弟子として比類のないテクニックの持ち主であるほかに、コンガ、ボンゴなどあらゆるパーカッションをこなすヴァーサタイルなパーカッショニスト>
 掲載した写真の1枚目はアルバム『海上の道』のブックレットに掲載するプロフィール用に撮影したもの。2枚目~10枚目は「レコード・コレクター紳士録」での撮影。

YouTubeから「Corazón de Puerto Rico/Willie Nagasaki」 「今をフリージング/松岡直也グループ

 
川崎市宿河原 2004年1月10日撮影
初出『海上の道ートリビュート・トゥ・アフロカリビアン・リズムス』(ソニー)
川崎市麻生区 2004年1月16日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2004年4月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん
#ウイリーナガサキ
#WillieNagasaki
#レコードコレクター紳士録
#アーカイブ

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アフロ・ジャパニーズ・オールスターズ

◯アフロ・ジャパニーズ・オールスターズ

 福岡県出身のラテン・パーカッショニスト、ウイリー・ナガサキさんの初のリーダー・アルバム『海上の道ートリビュート・トゥ・アフロカリビアン・リズムス』(ソニー)のために結成されたのが、アフロ・ジャパニーズ・オールスターズだった。
 アルバムの企画とプロデュースは中村とうようさんで、ジャケットのインナー(ブックレット)に使用する写真を担当した。とうようさんからは、参加するミュージシャン全員の写真を掲載したいので、レコーディング当日のリハーサル中に演奏している風景を撮って欲しいと依頼があった。また、それとは別にメンバーの集合写真の撮影も。
 リハーサル中の演奏風景など今ならデジタル・カメラでやすやすと撮影できるだろうが、当時はフィルム・カメラで、スタジオの照明がタングステンなのか蛍光灯なのかもわからないので、ポジフィルムではなくラチチュードの広いカラーネガフィルムとモノクロのネガフィルムで撮影することにした。なぜカラーとモノクロにしたのか覚えてないが、CDサイズの見開きにたくさんの写真を掲載するということだったのでカラーだけだと煩雑に見えると思ったのかもしれない。集合写真はストロボを焚くのでブローニーのポジフィルムを用意した。

 最初のレコーディングは2003年12月29日で、港区海岸にある倉庫の中のスタジオだった。当時のスケジュール帳によると朝10時からスタートしたようだ。とうようさんからミュージシャンは14~15名と聞いていたが、当日行くと18名に増えていた。また、集合写真はリハーサルスタジオの中で撮れると聞いていたが、マイクや椅子は動かせないといわれ、急遽スタジオに隣接する休憩所のテーブルを動かしてスペースを作り、1200w1台2灯のストロボを組み立てて撮影している。リハーサルの合間での撮影なので集合写真は準備から撮影終了まで10分くらいだったと思う。来日アーティストの取材では撮影時間が10分とかは普通だが、18人の集合写真はやはり大変で、大人数を動かすために撮影中はずっと叫んでいた(笑)。
 次の撮影は年が明けた2004年1月7日で、前回のレコーディングに参加できなかったジャズ・ギタリストの小沼ようすけさんの撮影だった。こちらは乃木坂にあるソニースタジオだった。
 集合写真はポジフィルムでそのまま入稿し、リハーサルの風景はネガフィルムを現像に出した後、フィルムをスキャナーで取り込んでデジタルデータにして入稿した。印刷ではモノクロの写真はダブルトーンになっているが、これは自分が指示したのかデザイナーの判断だったのか忘れてしまった。
 インナーの撮影はこの後、1月10日と11日に自宅アパートでウイリーさんのポートレートと楽器のカタログ写真を撮っている。
 アルバムがリリースされた後、発売記念ライヴが確か原宿のライヴハウス「クロコダイル」で行われたが、ウイリー・ナガサキ&アフロ・ジャパニーズ・オールスターズとしての活動がその後継続して行われたのかはわからない。
 ちなみに表ジャケットの写真は、繰上和美さんが撮影したキューバの風景写真になっている。
 掲載した28枚目と29枚目は、実際に使われたブックレットの複写です。
 
ウイリー・ナガサキ&アフロ・ジャパニーズ・オールスターズ ソニー公式ウェブサイト

ウイリー・ナガサキ&アフロ・ジャパニーズ・オールスターズ Apple Musicで試聴ができます

港区・山田倉庫503スタジオ 2003年12月29日撮影
港区・乃木坂ソニースタジオ 2004年1月7日撮影
#ウイリーナガサキ #WillieNagasaki #中村とうよう #ToyoNakamura #アフロジャパニーズオールスターズ #theAfroJapaneseAllstars #平井フミト #金井さちよ #伊達弦 #佐藤英樹 #渋谷和利 #今尾敏道 #奥村晶 #佐藤達哉 #野村裕幸 #ルイスバジェ #近藤和彦 #ルベールカブラーレス #Hal斎藤 #鈴木正則 #高橋里実 #堂本雅樹 #橋本佳明 #牧原正洋 #諸藤一平 #小沼ようすけ #アーカイブ

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2月10日(月)

 雪、もう飽きた・・・

◯ローリング・ストーンズ

 2月14日で、ローリング・ストーンズの初来日公演から35年が経つ。東京ドームでの公演に先立ち、2月9日に後楽園ホールで記者会見が行われ、その撮影に行った。アルバム『スティール・ホイールズ』の発売と共に行われたワールド・ツアーの一環で、大塚製薬もツアースポンサーになっており、記者会見ではポカリスエットのロゴも写真の中に入れて欲しいと司会者のような人が盛んに言っていた。
 掲載誌は『ミュージック・マガジン』1990年4月号で、ストーンズ徹底取材と銘打って大特集が組まれている。カラーグラビア10ページ、モノクロの記事が26ページという力の入れようだ。ステージ写真のメインは石田昌隆さんが、また、ストーンズのオフィシャルカメラマンとして知られる有賀幹夫さんがキース・リチャーズと五木寛之さん、ミック・ジャガーと五木寛之さんの対談を撮影している。
 自分が撮影した記者会見の写真は、カラーとモノクロでそれぞれ1カットずつ使用されている。
 掲載した写真は右から、キース・リチャーズ、チャーリー・ワッツ、ミック・ジャガー、ロン・ウッド。この時期在籍していたベースのビル・ワイマンは父親の病気により来日が遅れて記者会見に間に合わなかったそうだ。ストロボの影がついているが自分ではストロボを使用していなかったので、誰かのストロボを拾ったのだろう。
 ミックとキースは当時46歳、チャーリー・ワッツが49歳、ロン・ウッドが43歳。40歳を過ぎてロック・ミュージシャンをやり続けるなんで凄い!と当時はただただ思っていた。ところがミックもキースも現在81歳、ロン・ウッドは77歳で現役だ。残念なのは、独特のドラミングをするチャーリー・ワッツが2021年に80歳で亡くなってしまったこと。8ビートで2拍、4拍目のスネアを叩くときはハイハットを叩かないスタイルで、wikiには省エネ奏法と書いてあって、なるほどと頷いた(笑)。
 ところで今でもあなたはビートルズ派ですか、ストーンズ派ですかという質問は一般的なのだろうか。自分はどちらだろうと考えると、どちらでもない気がする。ビートルズは小学校高学年か中学の初めに「レット・イット・ビー」のシングルを買ったのと、大人になって赤盤と青盤、それからCD時代になって『1』を買ったくらいで、他にもレコード棚に入っているビートルズのアルバムはレコード紹介記事を書いていた20代の頃にレコード会社からいただいたもの。ストーンズにいたってはレコード会社からいただいた1983年のアルバム『UNDERCOVER』が一枚あるだけだ。

YouTubeから「The Rolling Stones Live in Japan 1990」 「The Rolling Stones初来日ドキュメント1990 (Rare Footage from Japan!)

ローリング・ストーンズ 公式ウェブサイト

後楽園ホール 1990年2月9日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1990年4月号
#ローリングストーンズ
#TheRollingStones
#ミックジャガー
#MickJagger
#キースリチャーズ
#KeithRichards
#チャーリーワッツ
#CharlieWatts
#ロンウッド
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#スティールホイールズツアー
#SteelWheelsTour
#アーカイブ

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ローリング・ストーンズ
ノーキー・エドワーズ

◯ノーキー・エドワーズ

 1935年5月9日生まれ。ザ・ベンチャーズの初代ベーシストであり、2代目リード・ギタリスト。
 wikiによると、チェロキー族の血を引く家系の12人兄弟の一人としてオクラホマ州ラホマに生まれ、後に一家の転居に伴いワシントン州ピュアラップで育つ。
 5歳でギターを手にするようになり、9歳の時にはバンジョーやマンドリン、フィドル、ベースなど様々な弦楽器を習得。17歳の頃にはナイトクラブやラジオに出演するなど本格的にプロとしての活動を始める。
 1959年、ワシントン州東部スポケーンのナイトクラブで演奏していた際、ザ・ベンチャーズの中心人物であるドン・ウィルソンとボブ・ボーグルに出会いメンバーに誘われ、ベーシストとして加入。直後にレコーディングした「ウォーク・ドント・ラン」が全米2位のヒットを記録した。その後、ボーグルの申し出で担当楽器を交代することになり、ザ・ベンチャーズのベーシストからリード・ギタリストとなる。
 1968年に牧場を手に入れ、馬主として競馬界に進出することになり、ツアーへの同行が困難なため、ザ・ベンチャーズを脱退。

 1972年から1985年までザ・ベンチャーズに復帰するが、その後はソロのミュージシャンとして活動する。
 ノーキーさんを撮影したのは、2015年に長野県白馬村で開催された「白馬・小谷 震災復興支援コンサート」だった。ノーキーさんと親交のある白馬村でペンションを営んでいた新田弥信さんが企画したコンサートで、プログラムにはこんなご挨拶が書かれている。
<伝説のエレキバンド、ベンチャーズのギタリスト・ノーキーさんは私にとって憧れのスターであり旧知の友でもあります。ノーキーさんは今年80歳を迎え、記念コンサートで全国をまわる予定です。そのスケジュールに是非、白馬や小谷地震の被災者の皆様のために演奏していただきたいとお願いしたところ快諾をいただきました。本日このような支援コンサートの開催にあたり、様々な皆様の援助やご尽力をいただき、実現が出来ましたことに深くお礼を申し上げます。どうか、しばし時間を忘れて素晴らしい演奏をお楽しみください。最後になりましたが、被災者皆様方におかれまして、今後益々のご健康とご多幸をお祈り申し上げます>
 白馬でのノーキーさんのバックは、赤坂を拠点に活動するバンド、エルカミーノが務めた。
 翌2016年、年齢と体力を考慮して最後の来日ツアーを行い、9月から10月にかけて熊本地震からの復興を応援するチャリティー公演を熊本など5都県で開催した。
 そして2018年3月12日、前年末に受けた臀部手術後の感染症に起因する合併症で亡くなられた。82歳だった。
 ノーキーさんは2008年5月にザ・ベンチャーズと共にロックの殿堂入りを果たし、2010年4月にはザ・ベンチャーズと共に旭日小綬章を受賞している。
 ちなみにザ・ベンチャーズは1994年の来日ツアーの際、オフィシャル・カメラマンとして9月11日の中野サンプラザでのコンサートと楽屋でのポートレートを撮影している。

YouTubeから「The Ventures - Wipeout live in Japan 1966」 「The Ventures, Nokie Edwards, Yuzo Kayama (2000)」 「Secret Agent Man(秘密諜報員)Nokie Edwards&Dr.K Project

ノーキー・エドワーズ オフィシャル・ファンサイト

ザ・ベンチャーズ 公式ウェブサイト

白馬村・ウイング21文化ホール 2015年10月5日撮影
#ノーキーエドワーズ
#NokieEdwards
#ザベンチャーズ
#TheVentures
#エルカミーノ
#ElCamino
#アーカイブ

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2月8日(土)

 大雪の峠は越したそうだが、屋根の上にも家のまわりにも大量の雪。今日は母親がデイサービスに行く日だったが、朝、「ちょっと迎えの時間が遅くなります」と担当者から電話。いつもより30分ほど遅い到着だった。

 気になった記事を備忘録として。
LA山火事で8000枚以上のレコードを失ったコレクター 「僕は音楽ジャンキーだ。音楽を買うのをやめることはない」

ジェイムス・テイラー・カルテット

◯ジェイムス・テイラー・カルテット(JTQ)

 ハモンドオルガン奏者のジェイムス・テイラーが、スティフ・レコードの破産により所属していたモッズ・グループ、ザ・プリズナーズを解散した後、1985年に結成した4人組ジャズファンク・バンド。メンバーはオルガンのジェイムス・テイラー、ギターのマーク・コックス、ベースのアンドリュー・マッキニー、ドラム のパット・イリングワース。
 彼らを撮影したのは学生援護会のアルバイト情報誌『デイリーan』での取材で、アシッド・ジャズ特集のページだった。この特集では他に、沖野修也、モンド・グロッソ、コーデュロイ、アス・スリーが取り上げられている。掲載されているモンド・グロッソのライヴ写真に付箋がついているので、JTQとモンド・グロッソが共演したライヴで、これも自分が撮影したのかもしれない。
 掲載誌には名小路浩志郎さんによる、ジェイムス・テイラーへのインタヴューが載っており影響を受けた音楽などが語られている。

「ハモンド自体にすごく興味があったんで、ハモンドを使ったバンドを昔は聴いてたね。ブリティッシュ・ビートはもちろん、サイケ、ピンク・フロイドやディープ・パープル、ELP。それから黒人音楽を聴き始めたんだけど、そこでのハモンドの使い方は教会音楽と同じでね、ジャック・マクダフなんてゴスペルそのものだし。僕らの曲も最近はゴスペル色が強くて、ソウルバンドって言われちゃうこともあるんだ」
 wikiによると、アシッド・ジャズとは1980年代にイギリスのクラブシーンから派生したジャズの文化。ジャズ・ファンク、ソウル・ジャズ等の影響を受けた音楽のジャンルとある。
 ジェイムス・テイラー・カルテットを撮影したのは1993年で、モンド・グロッソがフォーライフからデビューしたのも1993年。サックス奏者のスティーヴ・ウィリアムソンの来日ライヴでポール・ブラッドショウがDJをプレイしたのが1992年の暮れだった。日本でアシッド・ジャズが一番盛り上がりを見せたのは、90年代の初め頃だったのだろうか。

YouTubeから「James Taylor Quartet - Love Will Keep Us Together」 「Starsky and Hutch Theme - James Taylor Quartet live 3 apr 2004

ジェイムス・テイラー・カルテット 公式ウェブサイト

渋谷・オン・エアー 1993年6月19日撮影
初出『an(日刊アルバイト・ニュース)』(学生援護会)1993年
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◯オルケスタ・アラゴン

 1999年にヴィム・ベンダースによって制作されたドキュメンタリー映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が話題となり、その影響か1999年~2000年にかけて多くのキューバのミュージシャンが来日してコンサートを行った。
 1939年に結成されたオルケスタ・アラゴンのコンサートもその一つで、場所はお台場メディアージュ6階に出来た食事をしながら演奏が楽しめるライブ・レストラン『トリビュート・トゥ・ザ・ラブジェネレーション 』だった。この時のコンサートは、『ミュージック・マガジン』の山本幸洋さんの記事によれば1970年の大阪万博以来30年ぶりの来日公演だったそうだ。
 wikiによるとオレステス・アラゴン・カンテロによって結成され、当初はRitmica 39という名前だったが、その後Ritmica Aragónとなり、最終的に現在のOrquesta Aragónとなった。
 1950年代~60年代にかけてはキューバで最高のチャランガ(ヴァイオリン3~5にフルート、ピアノ、リズムセクションなどの編成)バンドだったという。
 2019年には音楽評論家であり音楽プロデューサーの田中勝則さんにより、結成80周年記念盤『78回転レコーディングス・コレクション1953−57』というCD2枚組のアルバムが制作されている。
 写真は『ミュージック・マガジン』2000年9月号と10月号に掲載されている。どちらもモノクロの写真なのでモノクロのフィルムも家にあるはずだが、デジタル化する際に時間がなくてカラーポジだけスキャンしたのだろう。
 10月号は切石智子さんが当時のメンバーの中で最長老のセルソ・バルデスにインタヴューをしている。
 現在もキューバにはロス・バンバンやチャランガ・アバネーラなどチャランガ編成のバンドはたくさんありますね、と切石さんが話を振ると
「そうだね、しかし皆それぞれに楽器の比率を変えたり、ドラムを加えたりしている。その中でアラゴンは最もトラディショナルな編成を守っているんだ。そして世界で最後に残るチャランガ・バンドなんだ。最新アルバムのタイトル通り”チャランガよ永遠なれ”、だよ(笑)」と答えている。

YouTubeから「El Bodeguero/ Orquesta Aragon

Sabrosona/ Orquesta Aragón

台場・TLG 2000年7月21日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2000年9月号
コンサート評を山本幸洋さん
初出『ミュージック・マガジン』2000年10月号
インタヴューを切石智子さん
#オルケスタアラゴン
#OrquestaAragon
#チャランガ
#Charanga
#キューバ
#Cuba
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オルケスタ・アラゴン

2月6日(木)

 朝起きると、まず玄関前の雪かきをすることが日課になりつつある。窓を開けて見上げると立派な氷柱(ツララ)が何本もぶら下がっていた。
ツララ
 今朝の北日本新聞に、第2のナクバ(大惨事)が始まると見出しを付けてガザの記事が大きく掲載されていた。検索すると、たくさんの地方紙がスペースの大小こそ違うがこの共同の記事を載せている。
 ナクバとはアラビア語で大惨事を意味する。1948年のイスラエルの建国に伴いパレスチナ人が住んでいた土地を追われ難民となった日(イスラエルの建国記念日)の翌日に当たる5月15日を、彼らは「ナクバの日」と呼んでいる。

 イスラエルが建国以来、どのようにパレスチナの土地を略奪してきたかは、『DAYS JAPAN』2008年3月号で広河隆一さんが執筆している短期連載2「NAKBA」に記述されている。少し長くなるが、引用させてもらう。

 1948年5月に始まったパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が49年2月に終結したとき、新生イスラエル国は、国連のパレスチナ分割協議がユダヤ人国家の領土として割り当てた土地をはるかに超えて、アラブ人国家予定地の多くを占領し、全パレスチナの77%を手中にした。48年9月と12月の国連総会決議194号でパレスチナ難民の帰還の権利が決議されたがそれは聞き入れられず、またイスラエルの初代首相ダビッド・ベングリオンは国家樹立宣言に国境明記を拒んだため、休戦ラインが国際的には国境とみなされるようになっていったのだ。
 パレスチナの土地は、イスラエルだけに蹂躙されたのではない。ガザ地区はエジプトに、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムはヨルダンに併合された。
 その後、パレスチナ人の村の接収が様々な法律を動員して進んだ。「民主主義国家」イスラエルにとって、土地は合法的に手に入れたものでなくてはならないからだ。
 まず、「不在者財産没収法」がある。これは戦争中に一度でも自分の村を離れた者は、不在者とされ、財産を没収するという法律である。この「不在者」とは、戦火が近づいたため一時的に村を離れた者、イスラエル軍の命令で村を立ち退かされたものを指し、彼らの家屋・土地・財産は没収された。法の適用を受けて接収された村は300に及ぶという。
 次にイスラエルは、「緊急法(防衛法)」を用いた。この125条に、軍司令官が定めた「閉鎖地域」と呼ばれる地区への出入りを禁じる法律があり、主に一時避難中の村民が自分の村に戻ろうとするときに適用されたという。14の村が「閉鎖地域」と宣言され、土地が没収された。

 トランプ大統領が4日に提案した、米国がパレスチナ自治区ガザを所有し、住民を域外に移住させるというのは、パレスチナの人々にとってまさにナクバの再来だろう。
 それにしても、トランプはどんな権限でこんな馬鹿げた提案ができるのだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
防衛費の増額要求「ほぼ確実」 米当局者、数値目標は明かさず
PFASの汚染源は「普天間飛行場」 沖縄県の専門家会議が基地由来と結論 米軍に立ち入り調査を要求へ
政府、高額療養費上げを修正へ 長期治療に配慮で調整

友利新

◯友利新

 沖縄県宮古島市(現・平良市)出身の医師。研修医時代の2004年に、第36回ミス日本コンテストで準ミス日本を受賞。美人女医として注目を浴び、以降、テレビや雑誌になどで美容と健康のコメンテーターとしても活躍している。
 友利さんは健康雑誌の取材で、2回撮影している。最初はレモンを使ったスキンケアの特集で、皮膚科医の立場からレモンを摂取した際の肌への効果を語っていただき、2回めは化粧ポーチの特集で、美人女医のポーチの中身を見せてもらうという撮影だった。撮影場所は、どちらも彼女が所属しいる赤坂にあるタレント事務所の中だった。
 事務所のプロフィールによれば、現在、都内2ヶ所のクリニックに勤務の傍ら、医師という立場から美容と健康を医療として追求し、美しく生きるための情報を自身のYouTubeチャンネルなどで発信しているそうだ。
 プライベートでは2013年に再婚し、2014年に第1子男児、2016年に第2子女児、2019年に第3子女児を出産し、3人の子供のお母さんになられている。
 2016年には第9回ベストマザー賞を受賞されたそうだ。

 ところで友利ってちょっと変わった苗字だな~と思っていたが、沖縄に移住するとけっこう友利さんが居た。沖縄県では友利という苗字は40位で、約6000人いるそうだ。

友利新 YouTubeチャンネル

友利新 Instagram

友利新 オフィシャル・ブログ

東京・赤坂 2007年6月28日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年10月号
東京・赤坂 2007年11月22日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年3月号
#友利新
#ArataTomori
#アーカイブ

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あいはら友子

◯あいはら友子

 兵庫県神戸市出身の女優。1977年の大学卒業を機に原田真弓の芸名で特撮テレビドラマになどに出演。翌1978年には相原友子の芸名でNHK連続テレビ小説『わたしは海』のヒロイン川村ミヨを演じ、女優としての知名度を広げる。
 その後、芸名をあいはら友子と改名し、多数の映画、テレビドラマ、舞台に出演。また、株式評論家としての顔を持ち、財テク女優と呼ばれたこともあるそうだ。
 あいはらさんを初めて撮影したのは、毎日コミュニケーションズ(現マイナビ)から1990年に創刊された仕事とパソコンの専門誌『月刊 THE 1・2・3MAGAZINE』だった。5月の創刊号から始まった連載「あいはら友子のハイテクトーク」の撮影を担当した。連載1回目のリード分には<財テクで有名なあいはら友子さんが、コンピュータを駆使して現在の日本をリードする最先端企業を、これから毎月訪問します>と書かれている。
 1年くらいの連載だったかな?と思い確認したら半年の連載で、訪れた企業と部署はMMI・FP事業部、山一證券・証券情報部、エニックス・ソフトウェア企画部、住商機電貿易・民生電子部、松下電器産業・電化研究所、住友不動産フィットネス・ノーチラスクラブ浜松町だった。

 ちなみに山一証券の取材で対応されたのは伊藤洋介さんで、住友商事に勤務していた杉村太郎さんとサラリーマン歌手コンビ、SHINE’S(シャインズ)で活動していた人。SHINE’Sを解散後は東京プリンを結成して話題にもなった。まだバブルの名残が感じられる時代だった。
 次にあいはらさんを撮影したのは20年後の2010年で、健康雑誌での精神科医・吉田勝明さんとの対談だった。この頃はスピリチュアルカウンセラーも始められていた。掲載した写真は、その時のもの。
 この対談記事は後に『見るだけで幸運が舞い降りる!「富士と鳳凰の絵」/あいはら友子」(マキノ出版)というMOOKに再掲載されている。
 あいはらさんは画家としての顔もお持ちで、1998年より赤富士を中心とした「富士シリーズ」の個展を全国のデパートで開催されている。また、清水寺には33年ぶりにご開帳された十一面千手観音の絵を寄贈されているそうだ。

YouTubeから「あいはら友子さんが描く 幸運を招く縁起物 赤富士 サンテレビ」 「金運上昇音頭/あいはら友子

あいはら友子 公式ウェブサイト

あいはら友子 オフィシャル・ブログ

神楽坂・アグネスホテル東京 2010年2月4日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2010年5月号
再掲載『見るだけで幸運が舞い降りる!あいはら友子「富士と鳳凰の絵」』(マキノ出版)
#あいはら友子
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#朝ドラ女優
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2月4日(火)

 今シーズン一番の寒気が北陸地方に流れ込んでおり、朝起きると外は大雪だった。ただ、湿った雪ではなくパウダースノーだったので雪かきは比較的楽だった。雪が降り続いているので除雪車が日中何回か通り、自分も玄関前の駐車スペースを何回も雪かきしなくてはならなかった。
 北日本新聞の記事によると、午後4時で砺波32センチ、朝日25センチ、魚津19センチ、富山15センチ、高岡14センチ、氷見13センチ、富山空港11センチ、猪谷59センチの積雪があったそうだ。
大雪と除雪車
ラフィンノーズ

◯ラフィンノーズ

 LAUGHIN’NOSE。英語表現にはない言葉なのでグーグルでは翻訳できなかったが、「鼻で笑う」「笑った鼻」と言った意味だろうか。
 1981年12月に大阪で結成された、ハードコア・パンクバンド。wikiによると最初期はラフィーノーズと読まれていたという。1980年代前半からナゴムレコードを主宰するケラ率いる有頂天などと共にインディーズ・シーンで活躍。自らのレーベルAA RECORDから1983年12月に1stシングル「GET THE GLORY」、1984年11月に1stアルバム『PUSSY FOR SALE』をリリースしている。1985年11月にはバップよりアルバム『LAUGHIN’NOSE』をリリースしてメジャー・デビューを果たす。
 ラフィンノーズで思い出すのは、1987年4月19日に行われた日比谷野外音楽堂でのライヴ中に起こった事故だ。ステージに詰めかけたファンが将棋倒しになり、3人が亡くなっている。
 1991年に一度解散したそうだが、1995年から活動を再開。2004年10月30日には17年ぶりに日比谷野外音楽堂でライヴを行っている。

 1984年のメジャー・デビューからレーベル、メンバー・チェンジをしながらオリジナル・アルバム23枚、ライヴ・アルバム3枚ほかをリリースし、現在も活動を続けている。
 ところで、ラフィンノーズを撮影したことは覚えているが、このライヴ写真をいつどこで撮ったのかががわからない。ずっと、「第16回 ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル」で撮影したと思っていたが、アーカイブ作業をしていて、1988~1989年の第16回に彼らが出演していないことがわかった。なんとなく、雑誌『ポップティーン』での撮影のような気がしている。
 ボーカルはチャーミー、ベースはポン。ギターは1984年から1989年まで在籍していたナオキ(宮本直樹)だろうか。

YouTubeから「聖者が街にやってくるpv/LAUGHIN’NOSE」 「ラフィンノーズ 2025.1.4渋谷クアトロ【GET THE GLORY】

ラフィンノーズ 公式ウェブサイト

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プリンセスプリンセス

◯プリンセス プリンセス

 プリプリの名で親しまれた女の子だけのロック・バンド。
 1983年にTDKレコード主催の「レディースバンドオーディション」で選出された5人によって結成された。当初のバンド名は赤坂小町で、1984年にシングル「放課後授業」でデビュー。プリンセス プリンセスに改名したのはTDKレコードからCBSソニーに移籍した1986年で、wikiによると名づけ親はムーンライダーズの岡田徹さんだそう。
 1988年にリリースした3枚目のシングル「MY WILL」がスポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMに起用されたことで注目を集め、それ以降、リリースするシングルが資生堂夏のキャンペーンやテレビドラマとのタイアップに起用され知名度と人気が上昇。1989年には女性だけのバンドとしては初の武道館コンサートを行った。
 掲載した写真は1988年12月4日に行われた渋谷公会堂でのコンサート。1989年1月25日の武道館まで続く全国19カ所、23回公演のツアー初日のコンサートだった。まさに彼女たちの人気が絶頂の頃のステージだ。

 掲載誌は、双葉社から発行されていたCD&VIDEOの総合情報誌『AVハウス』。カラーグラビアでの掲載で撮影したポジ・フィルムは編集部に渡してしまったが、自分の記録用として撮影したモノクロ・フィルムが手元に残っていた。
 この頃、SHOW-YAが提唱して女性ミュージシャンだけのロック・フェス『NAONのYAON』が開催されたりと、女の子のロック・バンドがちょっとしたブームだった。『NAONのYAON』でもプリプリを撮影しているし、本田美奈子を中心に結成されたNINAKO with WILD CATSも撮影している。
 プリンセス プリンセスは1996年に一度解散したが、東日本大震災をキッカケに再び集結し、2012年から2016年まで再結成された。現在は5人それぞれが個別のアーティストとして活動を行っている。

YouTubeから「Diamonds<ダイアモンド>/プリンセス プリンセス」 「世界でいちばん暑い夏/プリンセス プリンセス

プリンセス プリンセス 公式ウェブサイト

岸谷香 公式ウェブサイト

中山加奈子 公式ウェブサイト

渡辺敦子 オフィシャルブログ

今野登茂子 公式ウェブサイト

富田京子 オフィシャルブログ

プリンセス プリンセス YouTubeチャンネル

渋谷公会堂 1988年12月10日撮影
初出『AVハウス』(双葉社)1989年2月号
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2月2日(日)

 今年は2月3日ではなく、今日が節分だとか。豆まきをするわけでも柊鰯を飾るわけでもないが、恵方巻きというか太巻き寿司を食べる日になっている。昨日のうちにスーパーで海苔や具材を買っておいて、午後から七本の恵方巻きを作った。
恵方巻き
太巻き寿司

↑左はネギトロ、サーモン、カイワレ、大葉の恵方巻き4本。右はツナマヨ、カニカマ、玉子、キュウリ、大葉、カイワレの恵方巻き3本。

←床の間と神棚にお供えした後、包丁で食べやすいように切って晩ご飯にお下がりをいただいた。今年はネットで太巻き寿司の作り方を見て、自分で巻き簀を使って作って見た。ちょっと形は不細工だが美味しくできた。

 気になった記事を備忘録として。
新潟・柏崎刈羽原発で4度目の衛星電話故障…増設工事中、中央制御室の電話全て不通に 追加検査対象の可能性も
浮かび上がった東電の「下請け依存」 福島第一原発の廃炉作業で相次ぐトラブル
沖縄・伊良部島から若者が流出 利便性の向上で宮古島へ 過疎化止まらず高齢化 きょう大橋開通から10年
タッケナー・アンサンブル

◯タッケナー・アンサンブル

 マルコシアス・バンプへのチャレンジャーとして、1990年1月20日放送のイカ天(いかすバンド天国)に「ポレポレ・マレンベ」という曲で出場したタッケナー・アンサンブル。
 バンドとしてのアルバムなどは無いようだが、ソニーから1991年に発売されたオムニバスCD『エキゾチカ慕情』というアルバムにエマーソン北村、ピアニカ前田、チエコ・ビューティー、渡辺満里奈、ネーネーズらと共に参加している。
 彼らを撮影したのは、新宿区四谷にある東長寺の境内で行われたライヴだった。掲載誌は『ミュージック・マガジン』1993年8月号で、CONCERT PICKUPというカラーグラビア・ページに使われている。ジーザス・ジョーンズ、アイス・キューブ、デ・ラ・ソウル、YMOと並んでの掲載。
 コンサート評は川村恭子さんが書いている。記事の中で、<どちらかといえば、好きなバンドだ。それだけに、どうしても見る目が厳しくなってしまう>と書いており、技術的にはうまくなり、うまくなった分、器用になってしまい、器用になった分、小さくまとまってしまったと少し辛辣な評になっている。

 最後に<個人的にはまだまだ志を高く持って、音楽を続けてほしいバンドである。なぜなら、このバンドには「カリベロ」という名曲がある。そして、この曲に、かなり独自なバンドになる可能性をみるからなのだ>という文章で締められている。
 色々と検索したがその後の活動はつかめず、メンバーの名前はボーカルとギターの清水健成さんしか分からなかった。

YouTubeから「ボレボレ・マレンベ/タッケナー・アンサンブル

清水健成 公式ブログ

四谷・東長寺 1993年6月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年8月号
文章は川村恭子さん
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みうらじゅん

◯みうらじゅん

 みうらじゅんさんは、2回取材している。1回目は最初の単行本『単になんぎなうし』を青林堂から発売したばかりの1984年で、双葉社から発売した『VIVA COMIC漫画家大集合』という週刊大衆の臨時増刊号だった。こちらの取材は撮影ではなく、ライターとしてインタヴューと文章を担当した。
 2回目の取材は健康雑誌の「親孝行」をテーマにした特集だった。2007年のことで、こちらはカメラマンとして撮影だけを担当している。1984年に取材で伺った時は原宿に事務所があったが、2007年は新宿に事務所を構えていらした。
 記事の中では、<真心でするのは時代錯誤!親も子も満足感の得られる「親孝行プレイ」の勧め>と題して語っている。なにやら怪しげな人形やぬいぐるみが並んだ棚を背景にインタヴュー中の写真を撮り、インタヴューの後に蔵書の並ぶ本棚の前でポートレートを撮らせていただいた。
 1984年に取材した『VIVA COMIC漫画家大集合』では1ページのグラビアと、2ページのインタヴュー記事を書いている。
 漫画家フォーカスというグラビアには、こんな文章を載せている。

◯うしはキライですよ。ろくなことしよりませんで、アレは。

 うしマンガで一躍若手人気マンガ家となったみうらじゅんさん。彼のうしコレクションはなかなか有名だが、そんなにうしが好きなのですか、と聞けば「好きなことないですよ。キライですよ、臭いし。ろくなことしよりませんで、アレは」と冷たい返事。でも、
「かわいそうなやつやしね。将来決まってるから、食べられるっていう。一生懸命勉強してもね、そんなエラなれるわけちゃうでしょ。で、目が離れて付いてるもんやからどこを向いてるかわからへん。もうねーいったみたいな目してるし、危ないような世界の目してはるでしょ、ハッシシかなんか吸ってるような目でしょ」と話す彼の口ぶりはキライの裏返しで、実はたまらなく愛情を感じさせる。
 そんな彼がいま興味を持って集めているのはハニワ。
「盛り上げようとしていろんなもん買うたりしてるんですけど、いま一ですね。
 この人ちょっと暗い過去あるでしょ、昔は、人柱のかわりにハニワを立てたという。わりと恐いんですよ。で、家にハニワを置いたらその家は代々栄えへんとかいわれてるんですよ」
 では、恐いものをこんなに多数集めてどうするんですか?
「いや、わかりませんけど・・・向こう(自宅)の方にもぎょうさんあるんです」
 と答えてニコリと笑った。

 沖縄に移住していた2013年、石垣島のお盆行事・アンガマを見にいった。8月21日のウークイ(送り盆)に中心部のアーケード街にある「ゆんたく家」という施設へ行くと、みうらじゅんさんが、奥さんのbirdと一緒に最前列で座って眺めていた。なるほど、アンガマは彼の好きそうな民俗芸能だなと思った。

YouTubeから「青春ノイローゼ/三浦純」 「大島渚 イカ天

みうらじゅん 公式ウェブサイト

東京・新宿 2007年7月5日撮影
初出『ゆほびか』2007年11月号
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